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死に至らなかった私の病 ~キルケゴールの言う“絶望”とは

やあやあ、先日このブログを読んで依頼してこられたクライアントさんから、「ブログが12月で止まっていますが、もう書かれないのですか?」と聞かれ、慌てて書いてます・・・いえ、サボっていたわけでなく、私なりに「絶望」していたのですね。考え続けていたことが、あまりにもシンプルな宇宙の法則だと気づき。

c2 = a2 + b2 サインコサインタンジェント・・・・とか考えてたのが、1+1=2が真実、はぁ?!・・・では、いままでの労苦は?!
みたいな。

そんな折、西洋哲学を漫画で解説するお仕事が・・・。

はい。倫理の教科書で出てきましたね。ヘーゲルとかキルケゴールとか。カントとか。

弁証法とかアンチテーゼとかジンテーゼとかアウフヘーベンとか。(「ヘーゲル語」はいまさら意味を聞けない有名な哲学用語、って感じですね・・・)

ヘーゲル以降は、私より少し上の世代の人が「大学時代に実存主義にかぶれちゃってさ~」とか言ってるところです。

改めて読むと、難しいけど、なるほど宇宙の法則を人間の目から解読している。

「人間の目から」です。

これを、解説者としての代表的宇宙存在、バシャールの目から見るとどうなるか、って読み方をすると面白い。

例えば、キルケゴールが<死に至る病>と言った絶望は、バシャールの著作でいうと、この部分を表していると考えることもできると思うのです。

“みなさんは、エネルギーでできています。
そして、そのエネルギーにはそれぞれ固有の波動があって、その本来のあなた固有の波動、周波数が、あなたがどんな存在であるかを表しています。
~略~
「恐れとは、実は本来の自分自身と方向がずれている観念にふれるためのメカニズムである」
そう理解すると、恐れにはポジティブな目的があるとわかるでしょう。
つまり、「恐れとは、意識のドアをノックしているメッセンジャーである」と考えることができるのです。
「もしもし、見てみたほうがいい観念がありますよ。本来の自分自身と方向が一致するように調整する必要がありますよ」と言っているのです。
というわけで、恐れは恐れるに足らないことなのです。
恐れとは、目覚まし時計のようなものでもあります。
「起きる時間だよ、起きる時間だよ」「何かを見る時だよ」「行動する時だよ」と知らせてくれるだけなのです・・・”(『BASHAR2006 バシャールが語る魂のブループリント』より)

キルケゴールは世界を調和的に捉えるヘーゲルの哲学にドスで風穴を開けるような感じで「人間は誰だって絶望を持っている。絶望は必要だ」くらい言ってのけてるんですが、彼は絶望を有益なエネルギーと捉えているのです。目覚め~自己へのアウェイクニング~に必要な動力だと。

絶望を受け止めた上で、徹底的に自分と向き合え!って言ってるんですね。彼はキリスト教信者でもあり、真の信仰を定義し、普及したいという目的もあったようですが、実に現代的というか、先駆でありました。バシャール的に言うと、神はいません、あなたが神です、とあなた自身のワクワク♪を指針にして生きて!・・・ってことですから、キルケゴールは「絶望」と向き合いながら、著作で考えを表現することで素直にワクワク♪に従って生きていたのだと思います。(あんまり幸せに生きた感じしない人ですが、それは世間一般の指標にすぎず、本人は選んで孤独を生ききった感じ。自分の言ったとおり、人生の選択はすべて自分の責任だと受け止めて)

・・・そんなことを本を読みながら考えてたら、私の「絶望」なんて死に至る絶望でなく、アウェイクニングのラッパの音くらいのものなのだと、はっとしました。ラッパ鳴ってるのに無視し続けたら、魂のブループリントを生きないという意味の「死」に至るのだと!

先人が、膨大な時間を使って、解読したこの世の法則が無駄になったとは思えない。いま読んでも価値がある。それをバシャールがちがう視点でもっと簡単に解説したといっても、バシャールだって何十年もかけて真実を伝えようとしているわけです。折につけ、受け手の成長に合わせてバージョンアップしながら。

それも、ヘーゲルの弁証法的に言うと、アンチテーゼからジンテーゼ(向き合ったものと統合された状態)となり、新たな存在となり、新しいテーゼを必要としはじめる段階なのかもせん。
って、前時代のオジサンたちみたいに「ヘーゲルから実存主義にかぶれたことがある人」みたいな言い方になっちゃいましたが。テーゼ言いたいだけみたいなw

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