私は実家で3人暮らし(父、母、私)で、
親戚ともそれほどつきあいがなかったから、
煩わしいこともない代わりに、
一人一人の役割が大きくて「みんなスタメン」みたいな感じだったと思う。
暇な人がいないっていうか。
みんな頑張んなきゃいけないっていうか。
例え娘(私)が小さい頃でも。
(甘えてらんないっていうか)
大人になって、
ずっと独身で子どもも持たなかったから親が老いたときには看取りも介護もみんな一身に背負った.
そういうのが当たり前だと思ってた。
だけどふと周りを見ると、
家族が多い人って、
家族のことでめちゃくちゃ忙しいんだけど、
チームで一丸となってやってるんですね。
「統制とるの大変そうだなぁ」と思うのです。
私は少人数で民主的にやればよかったから。
親の看取りと介護をやったときなんか、
私の意思決定のみですよ。
親戚には相談していましたが、
みなさん私の意思を尊重してくれていましたし。

先日、紅葉の深まる少し前に小諸市にある父方のお墓を掃除にしにいきまして。
私一人なわけです。
手桶で水運ぶの重い・・・。
そこそこ広さがある敷地の草むしりつらい・・・。
家族が多い人はこんな思いしないんだろうなぁ~と思ったり。
パートナーがいても、年齢を重ねてるせいかお互いの実家にはノータッチ。
(私は介護終わってますしね)
「家」同士のつながりがない。
というか、昔から「家」とつながっている人と一緒になる気がしなかったんです。
「家族」を持つイメージがなかった。
だけど人には所属意識というものがあり、
人とのつながりを感じることで生きる力を得る生き物。
だけど私はそこちょっと薄い気がしてた。
正確に言うと、
「目に見えるつながり」にこだわってない気がしてた。
本当につながっている相手となら、
離れてても良いんだって思ってた。(あまり理解されないけど)
いま私は実家の親のケアから解放され、
「家」のことでやることが残っているとすると、
お墓の始末だけなんですわ。
それ終わったら暇(笑)
もしかしてこれを身寄りのない、家族縁の薄い人と呼ぶのかもしれないけど、
こういう人はね、
人とのつながりで確証を求めたりせずに、
自分とつながる人だと思います。
究極に。
大切にする人は、
自分。
自分のことを最高に愛して可愛がる運命。
セルフコンパッション(self-compassion)。
自分への慈しみ,自分への思いやり。
自分よりも人のことやってるほうがわかりやすいし簡単ですけどね。
三次元的で。
自分を愛せないことへの誤魔化しにもできたりしますしね。
自己犠牲的に。
だから私も自分のことをないがしろにしてよく人のことやっていましたよ。
self-compassionって本当にめちゃくちゃ難しいです。
だけど染みついた感覚をリセットし肉体レベルで新しく習慣づけるとすれば、
時間とお金を、
自分にいちばんかけることですわ。
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